Free Soul meets JOURNAL STANDARD.
【前編】インタビュー:橋本徹(SUBURBIA)
|『Free Soul』が塗り替えた、90年代・東京の都市景観。CD屋の店内、あるいは昼下がりのカフェで。恋人の家、あるいは友人の車で。スピーカーから瑞々しく零れる多幸感を創り出してきた彼に今一度問いたい。『Free Soul』とは?
〈ジャーナル スタンダード〉と『Free Soul』のコラボレーションプロダクトのリリースに際し、コンパイラーであり、編集者である橋本徹(SUBURBIA)氏に話を訊かせてもらった。
Photo_Daiki Endo
Interview&Text_Nobuyuki Shigetakeもう一度人生をやりなおすとしても、同じ道を選ぶと思う。
橋本徹 Toru Hashimoto編集者/選曲家/DJ/プロデューサー。サバービア・ファクトリー主宰。渋谷のカフェ・アプレミディ/アプレミディ・セレソン店主。『Free Soul』『Mellow Beats』『Cafe Apres-midi』『Jazz Supreme』『音楽のある風景』シリーズなど、選曲を手がけたコンピCDは350枚を越え世界一。USENでは音楽放送チャンネル「usen for Cafe Apres-midi」「usen for Free Soul」を監修・制作、1996年から1999年にかけて、タワーレコードのフリーマガジン『bounce』の編集長を担当。日本の都市型音楽シーンに多大なる影響力を持つ。近年はメロウ・チルアウトをテーマにした『Good Mellows』シリーズが国内・海外で大好評を博している。先頃、コンパイラー人生30周年を迎えた。
ー 今回会話させていただくにあたって、ネット上に転がっているほぼ全てのインタビュー記事を参照させていただきました。
橋本:僕はずっとインターネット上にいなくて、「橋本さんのことがわからない」って言われてた時期も結構あったんですけど(笑)。
ー おっしゃるとおり、リアルの人というか、フィジカルの人というか、Web上にはあまり姿を見せない人、という印象でした。
橋本:ここ10年ぐらいで少しずつインターネットに登場し始めた感じかな。基本的には90年代のスタイルでずっと生きてきちゃったんで(笑)。Spotifyが日本に上陸したぐらいから、Web上での活動にも関わるようになりました。やっぱり、この流れを無視してアナログ人間のままで生きていくのも辛くなってきたというところもあって。とはいえインターネットが嫌いというほどではなくて、単純にデジタルや機械の操作が苦手なんです。そんなこと言いながら放置していたら、浦島太郎になっていたと。
ー 今回、コラボレーションプロダクトについて訊くにあたって、怒涛とも言える90年代の前半部分を振り返っていきたいのですが、まずはすべての始まりともいうべく、フリーマガジン『Suburbia Suite(サバービア・スイート)』の創刊が1990年末のことです。
『Suburbia Suite』
橋本がかつてインディペンデント・マガジンとして編集・執筆していた音楽紹介誌。1990年末にフリーペーパーとして創刊し、90年代にはその内容を再編集したディスクガイドを3冊発行、その後は「relax」誌などの既存メディアでの特集という形で記事を制作してきた。「その志は、大きく言えば、自分が好きなのにあまり知られていない埋もれた名作に光を当て、肌に合うある種のムードをもった音楽を再評価・再編成すること、だっただろうか(『Ultimate Suburbia Suite Collection』ライナーノーツより抜粋)」橋本:ええ。大学を卒業して出版社に入社したのですが、1年目の冬のボーナスをつぎ込んで、4ページほどのフリーペーパーを作りました。出版社では某若者向け人気雑誌の編集部に配属になり、雑誌ができるまでの一通りの段取りが分かってきたところで、会社の仕事では表現できないような── 自分が学生の頃から大好きでインプットしてきた音楽、映画やデザイン、文化全般への興味や好奇心を表現できる場が欲しい、という想いが強くなり、制作に至りました。
ー とりわけ意識されていたのは「どういったものを取り上げるか以上に、どうやって見せるか」であったと。
橋本:編集者的な視点というのは、そういうことなのかなと。
ー ただマニアックで、誰も知らないものを紹介する、ということだけが正義ではないと。
橋本:それはすごく強く意識してましたね。
ー 90年代後半に編集長を担当されていた『bounce』の編集方針である”敷居は低く、奥は深く”とも地続きなマインドですよね。
橋本:僕の創作物すべてに通底した考え方ですね。1990年代は、僕たちが好きなセンスを感じさせてくれる海外の音楽や映画を受け入れる土壌が、日本でもようやく固まり始めた時代だったんです。『Suburbia Suite』はそんな時代背景や街の空気感ともシンクロした部分が大いにあったように思います。そういう意味で、タイミング的にもとても恵まれていたというか。
ー 言うまでもなくその後の橋本さんの活動の根幹となっているわけですが、青写真があったわけではなく、すべてが偶然的であったと。
橋本:計画的なものは立ててなかったですね。立てられない、という方が正しいかもしれません。でも、2000年代前半ぐらいまでは自分の好きなこと、やらずにはいられないことを世の中に発信すると、それに呼応して並走してくれる人がたくさんいて、一緒に楽しめる状況があったんですよね。当時はそれが当たり前だと思って、調子に乗っていろいろなことをやっていたわけなんですけど(笑)、今では、人生の春から夏にかけて良い時代を過ごさせてもらったな、と思っています。
ー 1990年代と2020年代とでは経済的な意味でも文化的な意味でもずいぶんと状況が異なっていますよね。
橋本:情報が溢れているから、自分で発掘する楽しみ、みたいなものを得るのは難しくなったかもしれないけれど、当然、便利になったことの方が多いと思いますけどね。僕らの時代はレコードの試聴すらほとんどできなかったわけですから。ジャケットを見て、裏のクレジットを見て自分なりに「あ、こういうのが自分の好きなレコードなんだ」と嗅覚を磨く必要がありました。今はそれが、月に1000円くらい払えばサブスクリプションでなんでも聴けますもんね。
ー 試聴もできなければ、インターネットで情報を得ることもできなかったですし。
橋本:あの頃は中古レコード屋の親父さんなんかも怖かったしね(笑)。
ー そんな背景があるなかで、橋本さんが作ったディスクガイドやコンピレーションCDはかなり重宝されたんだろうなと。
橋本:そうかもしれませんね。学生の頃から積み上げてきた「こういう感じが好き」なものをまとめて、言葉やデザイン、編集によって間口を広く表現することで、世代も性別も関係なく、たくさんの方たちに共感していただけた感触はありました。でも、いま思えば、自分を鼓舞するモチベーションの多くは「誰もわかっちゃいない」であったり、もっと言ったら「なんでこんなやつらが業界で大きな面してるんだ!」みたいなところだったんですけども(笑)。
ー そういった黒いエネルギーを燃料にしつつも(笑)、あくまでアウトプットは「フレンドリーでソフィスティケイトされたスタイル」で、広く拓かれた印象を受けました。
橋本:オープンマインドにしたい、という意識を強く持っていましたね。知識や理屈よりも、まずは感覚に訴えるものにしたいなと。僕が作るものはおしなべて、イージーリスナーズでも簡単に好きなものと出会えるような、音楽マニアではない中間層が手に取れるメディアにしたかったんです。そういった意図で、最初のフリーペーパーの頃は、センスや雰囲気の可視化に重点を置いて、CDショップやレコード屋さん、ライブ会場とかで、ふと目に入ったときに、感覚的に惹かれるようなものになったらいいなって考えながら作っていました。その一方で、1992年の秋に作った最初のディスクガイドは、よりコアな音楽好きにもアプローチする想定で作ったんです。
ー 『Suburbia Suite; Especial Sweet Reprise』ですね。これはどのようなものですか?
橋本:1992年の春にTOKYO FMで『Suburbia’s Party』という、毎週ひとつテーマを決めて、それに準じて選んだ曲を流すラジオ番組をスタートしたんですけど、そういったラジオやフリーペーパーなどで、いわばコラム形式に紹介していたものをディスクガイドとして再編集してカタログ化したのが『Suburbia Suite; Especial Sweet Reprise』ですね。
ー 今でこそ定番的なフォーマットですが、始まりは橋本さんですよね。
橋本:いわゆる歴史的な名盤をまとめた、教科書的なディスクガイドはその頃までにもありましたが、音楽を聴くときの気分やシチュエーションなど、そういった可視化できないものにフォーカスしたテーマ設定でレコードを紹介するものは、それまでになかったでしょうね。
ー 結果として、年代もジャンルも横断した選盤となり。
橋本:ビートルズの横にローリング・ストーンズがいて。あるいは、マイルス・デイヴィスの横にジョン・コルトレーンがいて。みたいなジャンル切りのディスクガイドではなく、チェット・ベイカーの横にベン・ワットがいる、みたいなことですね。奇を衒うわけではなくあくまで、お気に入り同士を矢印で結ぶような感覚で自由に選盤してましたね。
ー その作業は紛れもなく編集ですよね。
橋本:90年代って”編集の時代”と言われていて、雑誌などの紙媒体だけでなく、ファッションの世界でも、たとえばセレクトショップやスタイリストの編集視点が重要視された時代だったんだと思います。もちろんコンパイラーもそのひとつですが、音楽の作り方にしても、ヒップホップだったらサンプリングを主流にしたり。クリエイターたちがそういう編集の作業に夢中になっているディケイドでしたね。
ー 同年には初のコンピレーションCD『’Tis Blue Drops; A Sense Of Suburbia Sweet』がリリースされて。
橋本:『’Tis Blue Drops』は、いわゆる“渋谷系”はもちろんユーミンやミスチルも手がけた、2023年の2月に亡くなったアートディレクターの信藤三雄さん、雑誌『Olive』などで人気だったファッション・イラストレーターの森本美由紀さん、そして編集者の僕という3名に、1枚ずつコンピレーションを作らせる企画でした。これも音楽マニアに向けたものというよりは、広く拓かれたものだったわけですね。それまではコンピと言ったら音楽評論家やコレクターにオファーしていたと思うんですけども、時代を踏まえた90年代らしい人選だったなと思います。
『’Tis Blue Drops; A Sense Of Suburbia Sweet』
心地よく柔らかで甘やかな雨の雫をイメージして、メロウ・グルーヴ〜ソフト・ロック〜ラヴァーズ&ダブなどの知られざる名作がセレクトされた、記念すべきキャリア初のコンピレ−ションCD。ー コンパイラーとしてのデビューがそういった企画だったのはある意味で象徴的であり、極めて東京的というか、渋谷的というか。
橋本:そうですね。90年代の東京、90年代の渋谷における、ある種の記号として成り立つような、そんな組み合わせだったんじゃないかなと思います。
ー その翌年である1993年に、ご自身の会社、Suburbia Factoryを設立しています。
橋本:3年間で、いよいよ会社の仕事と両立するのは無理だなと思いまして(笑)。
ー 隔週誌の雑誌編集者として働きながら、ですもんね。
橋本:会社員として働きながらフリーペーパーやディスクガイドも作って、クラブでDJも始めて毎週のラジオ番組の選曲・構成もして……。独立というか、退社の一番のきっかけが、TBSの『Catch up』という深夜番組に出始めたことで。人事部からも「一応副業禁止だから、あんまり目立たないようにやって」と指摘を受けたんです(笑)。出版社ではいろいろと学ばせていただきましたけど、92年の後半ぐらいからは、両方やるのは厳しいかな、と思っていましたし、個人として音楽をメインに活動することに気持ちが移ってしまっていたところもありましたから。最後の1年ぐらいは、ずいぶんと会社に迷惑をかけていただろうなって反省しています。
ー そのまま勤め続けていたら、今頃勤続30年以上でしたね。
橋本:僕と同期入社の人たちが勤続25年にあたる年次に、椿山荘に同期全員を集めて、会社企画のパーティーが開かれたんですよ。そのときに20年以上前に退職した僕にも連絡がきて「未だに会社にしがみついてるやつらに一言挨拶してやってくれないか」と言われたんです(笑)。でも僕はそのとき、いろいろと上手くいっていないタイミングで。なので、その挨拶で「あのときやめないでおけばよかったです」って話したんです。もちろん冗談ですけどね(笑)。まあでも、独立してからは自分が好きなことだけをやってきたので、とても充実していたし、もう一度人生をやるとしても、同じ道を選ぶことになると思いますね。
ー 初のコンピレーションが出たことでレコード会社からのオファーが増え出し、それも独立に至った要因のひとつですよね。
橋本:そうですね。最初のディスクガイドのインパクトも大きかったのかなと。「うちでリリースできるアルバムはありませんか?」とレコード会社の旧譜担当のディレクターたちから連絡をもらうようになって。テイストごとに古い音源──60、70年代の音源が中心でしたけども、リイシューシリーズの監修もするようになりました。そのうちにシリーズのフラッグ的にコンピレーションを作れないか、みたいな話も来るようになったんです。
ー このあたりは、いわば『Free Soul』シリーズの下地にもなっているような。
橋本:はい。最初の『’Tis Blue Drops』が東京を中心に大好評で、セールス的にも成功でしたし、そのタイミングで出した1冊目のレコードガイド『Suburbia Suite; Especial Sweet Reprise』も大きな反響があったので、93年ぐらいからは「リイシューやコンピを出したいんですが、どうしたらいいですか?」とレコード会社の担当者から相談を受けるようになったんです。求められたことに応えようといろんな提案をしていたわけですが、徐々に、1冊目のレコードガイドで紹介したような、ソフトで、スマートで、スウィートで、ソフィスティケイトされた、”白っぽい”テイストの作品だけでなく、いわゆるブラックミュージックやクラブミュージックと接点があるような、70年代のソウルミュージック周辺のグルーヴィー&メロウな音楽を集めたコンピレーションを作りたくなってきたんです。そこで「『Free Soul』というコンピレーションシリーズを始めませんか?」と逆に僕の方からレコード会社に話を持ちかけ、94年春にスタートしました。
『Free Soul』という”現象”。
『Free Soul』
1994年春に始まった、グルーヴィー&メロウな70年代ソウル周辺音楽の珠玉の名作を選りすぐり、埋もれた名曲に光を当てたクラブ・パーティー“Free Soul Underground"に端を発するムーヴメント。橋本徹により新旧/ジャンル/国境を越えて選曲された“Free Soul"の名を冠したコンピレーションCDは120枚に達し、100万枚をゆうに超える売り上げを記録している。クラブ・シーンのみならず、いわゆる“渋谷系"からSMAPに至るまで、90年代の音楽カルチャーに多大な影響を与えたことでも、今なお鮮烈な印象を音楽ファンに残している、絶大な人気を誇るミリオンセラー・コンピ・シリーズ。ー 『Free Soul』は、現在では120枚以上がリリースされている長寿シリーズです。
橋本:コンパイラーとして30年間でトータル350枚以上をリリースしているので、およそ3分の1は『Free Soul』シリーズ、ということになりますね。
ー サブスクリプションのシャッフル機能で流れてきて、直感で「良いな」と感じたものが『Free Soul』収録の楽曲だった、みたいなことが多くて。1曲1曲で聴いても素敵であることは強調しておきたいです。
橋本:僕自身もそうやって中古レコードを買っているなかでその「良いな」と感じた1曲に出会っているわけですからね。このコンピレーションシリーズは、僕が学生の頃から地道に続けてきた活動の、ドキュメントであり集大成的なものですね。
ー 同時にレギュラーのクラブパーティーもスタートし、今でいうところのメディア・ミックスを先駆けていたわけですが、以前にインタビューで「CDを聴く層とディスクガイドを読む層とパーティーに来る層は、意外に被っていない」と話されていましたね。
橋本:僕は3つともやるほうなんですが、思ってる以上に棲み分けされているんだな、という印象が当時はありました。『Suburbia Suite』を隅から隅まで読み込んでいて、僕のことを僕よりも詳しいような人とかでもパーティーには来てなかったり、あるいは『Free Soul』のパーティーで最前列に陣取り、イントロがかかった瞬間にワーって盛り上がってるような人たちでもCDは持っていなかったり。アナログは買うけれどCDは買わない、って人たちが当時からいましたね。そのあたりは、高山さんが詳しいかも。
ー 高山さんはアナログ派、ということですね。
商品企画 高山(今回のコラボレーション企画を担当):買うのはアナログでしたが、もちろんコンピCDが出たら、曲目を見て「何が入ってるかな?」とチェックはしていました。
橋本:そういうリスナーも多かったんです。僕はけっこう理想論みたいなものを唱えがちなんですけど、何かを作る際には、自分の趣味嗜好やポリシー、良心だけでなく、受け取る側のこだわりやストライクゾーンを考慮しながらでないと求心力のあるものにならない、ということを『Free Soul』で学びましたね。
ー どういった経緯でそう感じたのか、詳しく聞かせてください。
橋本:当時『Free Soul 90s』というシリーズを『Free Soul』の第1弾が大ヒットした翌年の95年に出したんです。それは現在進行形のUKソウルであったり、アシッドジャズ、ヒップホップやR&Bなどのなかから、『Free Soul』で特に人気の高かった70年代ソウル周辺の音楽のサンプリングをしていたり、カバーをしていたり、あるいはリファレンスしていたりする曲を集めたシリーズだったんですけど、70年代ソウルであれだけ盛り上がってた人たちがあまり反応しなかったんですよ(笑)。現行の楽曲を収録していることもあって、敷居が下がったり、間口が広くなったりして新しいリスナーも入ってくるんですけど、コアな人たちは意外にも現在進行形のものにはあまり興味を示さなかった。これは僕らが理詰めでプレゼンテーションしてもどうにもならない部分だなと感じました。リスナーやファンが「ここからここまで」と自ら一線を引いちゃってることって、多分どんな業界にもあるのかなって。
高山:ファッションにも近しいことはありますね。
橋本:ファッションといえば、今の人たちにはピンと来ないかもしれないですけど、当時はDJや選曲家の影響力ってすごかったですよね。誰々がDJでかけてる、誰々があのファッション雑誌でおすすめしてた、みたいな。
高山:当時のファッション雑誌って、今ではあんまり見られないですが、後ろの方のページにディスク紹介が載っていましたよね。「この人これ聴いてんだ」みたいなのをチェックしていましたね。
橋本:ファッション系の人たちの中にも、今でいうインフルエンサーみたいな存在がいましたよね。 多分、当時だとMUROくんとか藤原ヒロシさんあたりが浮かぶと思うんだけど。
高山:そうですね。当時は現場に行って、MUROさんがプレイしているところを最前列で見ながら、レコードチェンジのときに一瞬だけ見えるジャケットを目に焼き付けて、中古盤屋に探しに行ったりしていました。そんな時代だったんですけど、今は気になる曲があったら、フロアの端っこでずっと『SHAZAM』ですもんね。
橋本:DJ中にフロアを見ると、『SHAZAM』の画面がチラつくことがよくあります(笑)。
ー 自戒を込めますが、現場まで出向いてハングリーに情報をキャッチしに行く、みたいな意識は低くなっている気がします。
橋本:そうかもしれないですね。今はいろんなことが便利で、すぐに欲しい情報に辿り着けるけど、それも良し悪しがあるんだろうなと。
ー ピンポイントでゲットできてしまうところに危うさがあるというか、ひとつの情報を得るために迷い道することがないんですよね。ある一曲を目当てにコンピレーションを買うにしても、いざ聴いてみたら「全部いいじゃん」みたいなことがあるのが、フィジカルや現場の面白さなのかなと。
橋本:そのとおりだと思いますよ。僕もそういう周辺情報、いわゆる連想ゲームみたいなことをすごく大切にしていて、『bounce』のような音楽雑誌や『Free Soul』のようなコンピCDで自分が気に入ったものを提案するときにも、リスナーがゲームとして楽しめるような、大きな意味での”編集”をしたいと思っていました。今は若い人たちのゲームの楽しみ方も変わってきているだろうから、僕があの頃にやったことをなぞっても、同じほどの影響力や訴求力はないのかもしれないですけど。当時はそれこそ、DJでかけた曲のプレイリストをフライヤーの裏にちょこっと載せておくと、みんなそれを見て中古盤屋さんに駆け込む、みたいなこともありましたからね。
ー それはすごいですね。
橋本:それだけみんな情報にハングリーだったということです。今の人たちはもっと落ち着いてるじゃない。DJをやっている人も「誰よりも早く、あの良い曲をかけたい」みたいな意識はあまりないのかもしれないですね。
高山:言い方は悪いですが、ネット上の情報は全部コピぺできちゃいますから、それによって差別化が難しくなって、同じような思考の人が増えてしまっているような気はします。
橋本:それに情報自体が商品価値になってるようなところがあって、実際に楽しむよりも「知ってるかどうか」みたいなのが重要なのかな。以前にどこかで「映画を早送りで見る人」がいるって話を聞いたことがあるんだけど、それ、なんなんだろう? って。古い人間なんで、何がしたいのか全然わからないなって思ってしまったんだけど。
ー そういう人たちからすると内容どうこうではなく、「見た」という事実が欲しいだけなんでしょうね。
橋本:僕らの感覚では、どうやってそこに至ったか、時間や情報の流れも連続した物語として楽しみたい意識があるんだけど、早送りして、かいつまんで知りたい人にとってはそういうのはどうでもよくて、「もうここだけ教えてくれればいいよ」っていう感じになってるのかもしれないね。
高山:プロセスは必要なくて、答えだけ欲しい、みたいなことですかね。
橋本:『Suburbia Suite』やその他のディスクガイドを通して、これまで何百枚ものレコードを紹介してきましたが、その何十倍、何百倍と選ばれなかったレコードがある、ということへの想像力がないのかもしれないですね。
ー アウトプットの外縁にあるものこそ大事だと思います。
橋本:そうそうそう。海面から見えているのは島の一部でしかないってことは、忘れないでいてほしいですね。逆に何を選ばなかったかということにも、大切な意味があるし。
ー すごくよくわかります。
橋本:でもまあ、現代に限らず、90年代の頃からそういう人たちはいましたよ。あの頃はレアなレコードとレアなジーンズを持ってることが若者たちの憧れだったと思うんですけど、レアなレコードやレアなジーンズを持っている人は、それだけではなく、あたりはずれ問わず、そのほかのものもたくさん持ってるんだよっていうね。
ー ちょっと、余談みたいになっちゃいますが、仕事柄いろんなインタビュー記事に目を通すのですが、その中でも「いいなぁ」と思う原稿に関しては、「その場で話されたけどいろんな都合でカットされた会話」に思いを馳せるようになってきていて。
橋本:そうだよね、うん。すごくよく分かりますよ。
JOURNAL STANDARD 全店で販売中。お問い合わせはお近くの店舗まで。
ー 脱線すみませんでした。それでは、今回のコラボレーションプロダクトの話に移りたいのですが、どういう経緯で始まったのか、まずは本企画を担当した高山さんからお聞きしたいです。
高山:僕は1999年から〈ジャーナル スタンダード〉で働いていて、まだ渋谷にしか店舗がない頃に入社しているんですけど、その頃ってお店に自分たちが好きなCDを持ち込んで、BGMとして流しながら接客する、みたいなことがまだ許されていた時代で、『Free Soul』シリーズは店舗でも好んで流していたコンピだったんです。そういう当時、僕ら世代が熱狂してきた音楽を、また再度聴いてもらえるようなきっかけをファッションを通して作れたら嬉しいなと。これまでにも〈ジャーナル スタンダード〉ではいろんなコラボレーションをやってきましたが、やっぱり『Free Soul』はずっと頭の中にありました。それで今回、橋本さんのコンパイラーライフ30周年のタイミングが重なり、お声がけさせていただいた次第です。
橋本:『Free Soul』は29年前に1枚目がリリースされて、セールス的にも全盛期は90年代なわけじゃないですか。〈ジャーナル スタンダード〉の大元のベイクルーズみたいな、会社としても立派で素晴らしい、洋服好きのコレクティブに信頼されている商品企画の方が、今、この2023年に『Free Soul』を気にかけてくれて「一緒にかっこいいものを作りましょうよ」と言ってくれたことが、とても嬉しかったですね。
高山:僕の今回の1番の目標は、まずこの『Free Soul』という素晴らしいコンピレーションCDの名前を、今の若い世代の人たちにも知ってもらうことだったんです。サブスクリプションの時代で潜在的に知っている人にも、洋服を通してもっと深く知ってもらえたら嬉しいなと思っていますね。僕ら世代の『Free Soul』に散々お世話になった人だけでなく、若い世代が「なんですか、これ」って反応して、掘り下げていってくれたらなって。そういう想いもあって、背面のデザインには立役者として橋本さんの名前をクレジットさせていただきました。
橋本:僕は「これ、とりませんか?」って言ったんですけどね(笑)。恥ずかしいじゃないですか、自分の名前が入ってるなんて(笑)。
高山:僕の中ではジャイルス・ピーターソンと並ぶ功績を持つ人なので、やっぱり入れたかったんですよね。誰がやってるとか、そういう背景も知っていることでより楽しめると思っていますから。
橋本:そういう意味では、こういった取材を通して、ひとつのカルチャーの背景にあるストーリーを記事にしていただくのは、すごく意味があることだと思っています。特に、リアルタイムではない世代に伝えていく、という意味を考えればなおさらですよね。
ー しかし、ものすごくアイコニックなロゴですよね。
橋本:ジャケットはNANAの小野英作がアートディレクションしてくれていて、『Free Soul』が売れたのは、このジャケットのデザインも大きな要因かなと思っています。写真はタイトルによって変えていますけど、このロゴがずらっとCDショップに並んだときのワクワクするような感じ、その魅力って本当に大きかったなって。CDショップにこのコンピシリーズが並んでるのを見るだけで、時代や街の空気を感じることができたりするような、ある種の90年代の東京のアイコンでもあると思います。
ー 各アイテムについて聞いていけたらと思うんですが、まずはこれですかね。
橋本:これはね、『Free Soul』の10周年記念の際に、Sony Magazinesと作ったCDマガジンのジャケットに使ったヴィジュアルですね。内容としては、その頃までの『Free Soul』シリーズを一覧にしたカタログのようなものと、10年を振り返る僕へのロングインタビューを中心に、それ以外にも、ジャイルス・ピーターソン、小西康陽さん、藤原ヒロシさんとの対談記事や、DJのフェイヴァリット・チャートなんかも掲載していました。
『We ♡ Free Soul 』
『Free Soul』を象徴する、黄金の名曲がぎっしり詰まったベスト・オブ・ベスト・コンピにして、読みごたえたっぷりのCDマガジン。Sony Magazinesとの共同制作。2005年リリース。ー これまためちゃくちゃ豪華な。
橋本:藤原ヒロシさんは「『Free Soul』シリーズは海外の友人にプレゼントすると喜ばれるから、同じものをいくつも買ってます」なんて言ってくださいましたね(笑)。選曲は、ベスト・オブ・ベストという感じで、SONY系の音源でキラーチューンをずらっと並べました。このCDマガジンはシリーズになっていて、毎回テーマが決められていたんですが、他の号が「バンドやろうぜ!」や「おニャン子クラブ」のようなメジャーな特集だったので『Free Soul』で大丈夫なのかな? って思ったんですけど(笑)。
ー 結構、振り幅が。
橋本:そういうメジャーな並びに入れてもらったことは仮想敵と肩を並べたみたいで喜ばしいですけどね(笑)。担当していた編集者とディレクターがとても熱心だったことを覚えています。『We ♡ Free Soul』は結局、CDとしては3部作になったんですけど、その第1弾のCDマガジンということで、今回、ジャケットや表紙をプリントしたマーチャンダイジングをするのなら、これは存在感的に欠かせないかなと個人的には思いました。
ー こちらも含め、絵柄はどのように決まっていったんですか?
橋本:まず、今までに手がけた350枚以上のコンピレーションのアートワークを一覧にしたものを高山さんにお渡ししました。その中で使用希望のものをいくつかピックアップしてもらって、CDやアナログ盤の現物をお渡しして、デザインを進めていただいた、っていう段取りですね。こちらからも「これらのなかから選んでいただくのはどうですか?」みたいなリクエストもさせてもらいまして。せっかくだから、代表的な作品や人気作をファッションアイテムにしてもらいたいっていう意識が少なからずあったので、エゴも聞いていただいて(笑)。
高山:選定にこだわっていただいたのは、こちらとしてもありがたかったです。
ー キャッチフレーズ的なものも入っていますね。
橋本:この”Absolutery Free!”というキャッチフレーズは、『Free Soul』の最初期に制作、流通を担当してくれたBMGが販促用にTシャツを作ってくれたことがあったんですけど、そのときに使ったキャッチフレーズですね。僕、フランク・ザッパが実は好きで、『Free Soul』のイメージとはかけ離れてるかもしれないですが(笑)、彼のアルバムタイトルからの引用です。”絶対的に自由”という言葉が、『Free Soul』のフィロソフィーやポリシーにマッチするかなってことで、当時使っていたフレーズを”Groovy & Mellow Lifestyle”という言葉とともに29年ぶりに復活させました。
ー ちょっと今出てきましたが、『Free Soul』がシリーズを通して掲げているモットーであったり、フィロソフィーであったり、詳しく聞かせていただけますか?
橋本:先ほど少し話にあがりましたが、自由でオープンマインドである、ということは、大きなテーマとしていました。もともと”Free Soul”という言葉の成り立ち自体がいろんな引用だったりするんですけども、意味としては、言葉そのままに「自由な心で、自分の感覚に正直に音楽を楽しむ」ということなので、本当にシンプル。フリーソウルというと、ソウルミュージックのひとつのジャンルみたいに言葉が一人歩きしていた、というか今でもしているけれども、むしろフリーマインド的な意味合いなんです。
ー “自由”を強く打ち出していることに、それまでの音楽メディアや音楽評論家への反骨精神めいたものを感じました。
橋本:もちろん、カウンター的な意識はすごくありましたよ。僕らが若い頃に、音楽に詳しい人── 評論家やコレクターの人たちの態度や雰囲気を見ていて、権威主義めいたものを感じていたんです。音楽は楽しむものなのに、お勉強みたいになっているなって。ソウルミュージックに関しては、そういう方たちが「これこそが黒人音楽だよ!」と評価している楽曲よりもむしろ、彼らの物差しでは無視されていたり、軽視されていたりしたメロウ&グルーヴィーな楽曲のなかに、僕らが好きな音楽はあるな、と思いました。
ー なるほど。
橋本:だから、”Free Soul”という提案を始めた最初の頃は、そういう軽視されていたアーティストを象徴的に前面に出してアピールしましたね。たとえばリロイ・ハトソンや、テリー・キャリアーなどがその筆頭で、今でこそ完全に新しいスタンダードになってますけど、それまでは結構スルーされていたというか、軽視されていたんですね。女性のソウルシンガーでも、今の若い人たちの感覚だと信じられないと思いますが、たとえばミニー・リパートン。あの名曲「Lovin' You」の人ですけども。あとは「Free」がメロウ・クラシックとして人気のデニース・ウィリアムスであったりとか。現代で言えばシャーデーなどに通じるような、メロウで綺麗に唄う女性ボーカルの曲って、僕らは大好きだったんですけど、当時は酷評されていたんですよ。その頃はまだ、日本のソウル評論では、ディープな歌唱── アメリカでも南部とか田舎の方の、要は”黒人版演歌”みたいなものほど評価が高かったわけですね。ミニー・リパートンやデニース・ウィリアムスのような、都会的でハイトーンの綺麗な歌声で、みたいなタイプの女性歌手は、日本の黒人音楽ジャーナリズムの世界では全く評価されていなかった。和田アキ子は評価するけど、松田聖子は評価しない、みたいなね。これはあんまりいい例じゃなかったかもしれないので、掲載しないでほしいですが(笑)。
ー 『We ♡ Free Soul』のほか、ジャケットをプリントした2枚のTシャツに関してはいかがですか?
橋本:『Free Soul Universe』と『Free Soul Dream』は、『Free Soul』シリーズの入り口になるような選曲かなと思いまして。Tシャツにすることで「CDも聴いてみようかな」って方も出てこられると思いますので、そういう方にぴったりな、ポジティヴで高揚感溢れる楽曲を収録したコンピを高山さんに何枚か提案して、その中からチョイスしてもらいました。『Free Soul Universe』はとてもハッピーで、『Free Soul Dream』はメジャー感もありますので、Tシャツを買った方はぜひCDも聴いていただけると嬉しいですね。それとこの2枚は、ロングスリーヴTシャツで可愛いので、女性が着てくれたり、男性が女性にプレゼントしてくれたらいいな、というイメージもありました(笑)。
『Free Soul Universe』
『Free Soul』シリーズの中でもとりわけ華やかで明るくポジティヴな楽曲が揃っている、多幸感に溢れた1998年リリースの名作コンピ。『Free Soul Dream』
同じく1998年リリースの人気コンピ。”Dream”という言葉がよく似合う、ポップでキラキラとした70〜80年代のダンサブルなサウンドを中心に選曲。ー しかし、シリーズ通算で120枚以上ってハンパじゃないですね。
橋本:いわゆるオムニバスの形式だけでなく、レーベル・ベストやアーティスト・ベストなど、いろいろな形態で出してますけどね。ハワイとかジャマイカとかブラジルとか地域別だったり。あとは90sや2010sとか年代別のものだったり。
ー 個人的には『フリー・ソウル・キリンジ』や『Free Soul Original Love 90s』が印象に残っています。こういう切り分け方があるんだな、と。
橋本:30年近く経ってもこうやって〈ジャーナル スタンダード〉からお話をいただけたりするのは、やっぱりそういった日本人アーティストのコンピなどのサブラインも含めて、いろんなところで目と耳に入る機会を増やしてきたからこそなのかなと思います。僕はDJでもあるので、目の前の人に向けて良いヴァイブスを届けることが原点ではありますが、CDで全国に流通することで、裾野が広がっていったというか。クラブやストリートとお茶の間、アンダーグラウンドとメジャーを分け隔てなく扱ってきましたしね。『Free Soul』自体は趣味的にかなり突っ込んだところもあると思っていて、マニアックなのかもしれないんですけど、あくまでマクロな視点は常に意識しながら活動してきたつもりで、だからこうやってコラボレーターとして頭に浮かべてもらえたのかなって。
ー 30年続けるってのがとにかくすごいなと。モチベーションはいったいどこから湧き上がってくるんですか?
橋本:根っこにあるのは「自分が楽しい世の中にしたい」っていうことですかね。コンピCDや、店舗BGMの選曲を通して、少しでも自分好みの世の中になるようにセンスの基準値を引き上げる、と言ったらおこがましいですが。でもそれが、僕が選曲を生業にしたり、コンピレーションCDを作り続けている意義なのかな。そうすることで一般教養の書きかえやインフラ整備にも繋がるっていう意識があるから。
ー いろんなジャンルやいろんなアーティスト、いろんな年代のものを扱っていますが、橋本さんのオリジナリティが端々から感じられます。
橋本:聴いてもらえば「あ、これは橋本徹のコンビだな」と感じられる何かはあるだろうと自負はしています。それでも、好き放題やっているわけではないんですよ。受注依頼を受けた仕事である以上、利益を生み出すことは当然求められるし、僕にだっていろんなやりたいことはあるけれど、レコード会社にとって利益になるように、というか少なくとも、そんな利益にならないとしても、担当したA&Rやディレクターが「俺、今これやってるんだよね」って嬉しそうに、楽しそうに、誇りを持って恋人や家族に言えるようなものにしなきゃいけないな、と思っていて。だから常に、言葉はちょっと軽いですけど、”イケてるもの”にし続けることが重要なのかなって。そのためには、何かひとつでも自分が「違うな」と思うことや「ダサいでしょ」と思うことは、やらないようにしようと心に決めています。(後編に続く)