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    【後編】インタビュー:橋本徹(SUBURBIA)
    |20世紀の終わり、公園通りに吹く風。

    平成初期に巻き起こった『Free Soul』のムーヴメントは、コンピレーションCDという枠を大きく飛び越え、あらゆる方向に派生することとなった。そうして最盛期を迎えた90年代後半、20世紀末。橋本氏が見たのは、どんな景色だったのだろうか。

    〈ジャーナル スタンダード〉と『Free Soul』のコラボレーションプロダクトのリリースに際し、コンパイラーであり、編集者である橋本徹(SUBURBIA)氏に話を訊かせてもらった。(前編はこちらから

    Photo_Daiki Endo
    Interview&Text_Nobuyuki Shigetake

    渋谷、公園通りの風景。

    橋本徹 Toru Hashimoto編集者/選曲家/DJ/プロデューサー。サバービア・ファクトリー主宰。渋谷のカフェ・アプレミディ/アプレミディ・セレソン店主。『Free Soul』『Mellow Beats』『Cafe Apres-midi』『Jazz Supreme』『音楽のある風景』シリーズなど、選曲を手がけたコンピCDは350枚を越え世界一。USENでは音楽放送チャンネル「usen for Cafe Apres-midi」「usen for Free Soul」を監修・制作、1996年から1999年にかけて、タワーレコードのフリーマガジン『bounce』の編集長を担当。日本の都市型音楽シーンに多大なる影響力を持つ。近年はメロウ・チルアウトをテーマにした『Good Mellows』シリーズが国内・海外で大好評を博している。先頃、コンパイラー人生30周年を迎えた。

    ー コンピCDとして誕生してから来年で30年になる『Free Soul』シリーズですが、もう2世代になってきているそうですね。

    橋本::お店に来てくれる若いお客さまでも「お母さんが『Free Soul』が好きで、ずっと家や車で流れていたんです」と言ってくれる人たちがいたりします。そういう嬉しい話を聞くと、引き続き頑張りたいなって思いますよね。3世代にわたって知られている、サザンオールスターズのようになれたら嬉しいですね(笑)。

    ー 時代の流れとともに、音楽を聴くメディアも多様化していってます。

    橋本:やっぱりCDというメディア自体がかなり廃れてきたことは、認めざるをえないのかなって。

    高山:それが、アナログリバイバル、カセットリバイバルに続いて、今ではCDが少しずつ再評価されてきているみたいですよ。

    橋本:そうなんですか。時代によって姿や形は変わるかもしれないけれど、自分が好きだと思ったものを分かち合うための媒体は在り続けるといいなと思いますね。CDみたいな記名性のあるものだけでなく、ショップBGMの選曲もそうだし、今回のようなアパレルとのコラボもそう。Tシャツはこれまでにも他社と作ったことがあったんですけど、ロングスリーヴTシャツは今回が初めてですし、キャップやファティーグシャツなんかも初めて作りました。この充実のバリエーションには、高山さんの気概というか、本気度を感じさせてもらいました。たいてい、まずはTシャツじゃないですか。

    高山:そうですね。ファティーグシャツに関しては、〈ジャーナル スタンダード〉って初期はミリタリーミックスのお店だったよね、というところを表現したいなと思って、作らせてもらいました。

    ー 絵柄を借りてプリントするだけではなく、これこそがコラボレーションですよね。

    橋本:ええ、そう思いますよ。本当に。多分、高山さんもそこにすごくこだわっていたと思うので。これって〈ジャーナル スタンダード〉の顧客さんやファンの方たちに提案できるだけのポテンシャルが『Free Soul』にあると感じてもらえたってことだから、そこが嬉しいです。

    ー ところでさっき”お店”ってフレーズが出てきましたけど、カフェ・アプレミディのことですよね。1999年に『bounce』の編集長を退任したのちに渋谷・公園通りにオープンして、当時のカフェブームを牽引し、現代のカフェスタイルの原型を作ったお店だと認識しています。

    橋本:マスコミではよくそういうふうに書いていただいてましたね。

    カフェ・アプレミディ
    1999年秋、渋谷の公園通りにオープン。橋本自身の考えや嗜好がそのままに反映された心地よい空間は、時代の傾向とリンクし、現代にも繋がる”東京カフェスタイル”の源流を創りあげた。現在はファイヤー通りに移転。毎週金曜の『Friday Lounge』はじめ、DJイベントも充実。(東京都渋谷区神南1-9-11 インタービル2 5F)

    ー オープンの経緯からお聞かせください。

    橋本:1999年の5月に、とある仕事でパリに行って、現地のカフェ文化を取材したことがあったんですけど、仕事ではありましたが、なんだかひさしぶりに精神的にゆっくりできた実感があったんですよ。というのも、その頃って3年間務めた『bounce』の編集長を退任したばかりだったんですけど、『bounce』の時代は平気で1週間ぐらいほぼ徹夜でしたんで(笑)、それとのギャップだと思うんだけども。で、帰ってきて特に何するかは考えてなかったんですけど、みんなから「次は何するの?」って聞かれていて。なんとなくふと、「カフェをやってみようかな」って思ったんですよね。僕、当時渋谷に住んでいたんですけど、家の近所に気の合う仲間たちと過ごせる場所を作りたい、という想いは前々からずっと潜在的にあって。要するに、サークルの部室的な感覚(笑)。学生の頃、部室に溜まったりするじゃないですか。ああいう感覚の場所がずっと欲しかったんです。数か月前のパリでの時間なんかも思い出しながら、せっかくやるなら自分たちの好きな音楽がかかっていて、好きなインテリアに囲まれていて、好きな友達がいるお店がいいよね、とアイディアを膨らませていき、山下洋をはじめ、男性スタッフは全員音楽仲間、DJ仲間で固めて。

    ー そうして始めたカフェ・アプレミディはすぐに話題となり。

    橋本:2000年から2002年までの間は、空前のカフェブームで、アプレミディもいろんなメディアに取り上げていただきました。毎日のように、オープン前の11時から取材タイム、みたいなね。本当に、平日はいつも取材が入っていたんですよ。それこそ雑誌のカフェグランプリで日本一に選ばれたり、『出没!アド街ック天国』でも公園通りの象徴として紹介されたり。90年代後半の渋谷は世界で1番レコード屋の多い街ってギネスにも登録されて、音楽の商品量も情報量も文句なく集まっていたんだけど、自分たちが心地よく過ごせる場所が渋谷にはなかったから、作った、というわけですね。

    ー 動機としてはもうかなりシンプルというか。

    橋本:すごくシンプルでしたね。でも、そうやって作ったアプレミディは、僕も気軽に入れないくらい混むようになっちゃって(笑)。それで、下の階のテナントがちょうど空いたから、レストランを作ろうって流れになって。

    ー アプレミディ・グラン・クリュですね。

    橋本:そうそう。カフェを始めてからフレンチ、イタリアンであるとか、食事にも興味が湧いてきてたから、好きなシェフを呼んで、好きなワインも置いて。内装も、カフェの方はお金をかけずに中古家具とか有り物でやっていたんだけれど、レストランの方はインテリアも北欧アンティークを中心にウッディーな感じで統一感を出して。店内で流れる音楽も、上品なサロンジャズをメインに、ダイニングルームの音楽をイメージして選曲していました。つまり、カフェ・アプレミディよりも全体的にちょっとハードルを高くした、大人っぽいコンセプトだったわけですね。それが2002年の春。

    アプレミディ・グラン・クリュ
    当時のカフェ・アプレミディのひとつ下のフロアに二号店として開業した、フレンチ〜イタリアンのダイニングサロン。

    ー 2000年代前半は、場所作りに力を入れていた。

    橋本:そうですね。それで、同じ年の秋かな。アプレミディ・セレソンというセレクトショップを渋谷のPARCOの地下1階にオープンしました。販売するのは基本的にはインテリア雑貨中心で、あとの半分はセレクトしたCDやレコード。服飾系もちょっと扱っていましたね。

    アプレミディ・セレソン
    渋谷PARCO PART1の地下1階にかつてあった、音楽CDや雑貨、服飾小物などを扱う複合型セレクトショップ。現在もカフェ・アプレミディの一画が同コンセプトの物販スペースとなっている。

    ー その間もずっと『Free Soul』はリリースを続けていて。

    橋本:その頃にはもうリリースを始めて10年近くになりますから、だいぶ定着して、信頼のブランド、安心のブランドみたいな感じになっていました。だいたい、レコード会社の旧譜のセクションのディレクターの方から、期の終わりが近づいてくると「『Free Soul』で何か出しませんか?」って連絡が来るんですよ。おそらく、予算を達成するためだったんだと思うんですけど(笑)。

    ー 駆け込み寺というか。

    橋本:そうですね、あとはコンピだけじゃなくて、コンピに入ってる曲のオリジナルアルバムを集めてリイシューしたりとか。まあそれ自体は劇的には売れるものではないんだろうけど、積み重ねれば、ね。

    ー かなりの多作というか、1990年代から2000年代に関しては、ずっと動き続けてるというか、アウトプットの量がとにかく尋常じゃないと思ったんですけど、インプットって、どこで、どういうタイミングでしていたんですか?

    橋本:インプットしてるっていう意識が全然ないんです。やっぱり、ただただ音楽が好きだから、ライフワークみたいなもので。自然に生活をしているなかで、自分の興味のあるものを聴いているだけなんです。無理やりインプットしなきゃ、なんていう意識は今に至るまでまったくなくて。ただ、アウトプットの機会がないと、精神的に健康な状態ではなくなりますね(笑)。アウトプットの機会が定期的にあることで健康になれる、というか。

    『relax』
    マガジンハウス刊。岡本仁が編集長を手がけていた頃の『relax』では、2000年5月号、2001年7月号、2002年6月号の三度に渡り、橋本徹(SUBURBIA)の特集が制作された。

    ー 仕事と表現に、境界線のようなものは?

    橋本:それも、あんまりなくて。まあ、それはそれでいいのかなって思いながらやってきたんですけど、やっぱり、今の人たちはもっとちゃんと考えながらやってるんだろうなって感じます。見習わなきゃないけないですね。僕は人生のピークが若い頃に来ちゃってるから、学んでないんですよね(笑)。あんまり考えなくても割とうまくいっちゃったから、挫折に弱いというか。若い頃に考える癖をつけておかないとだよね。

    ー 下積み的なことですか。

    橋本:うん、下積みをしていないから、自分のやり方しか分からない。

    音楽・映画・本・飲食を愛するすべての都市生活者に捧ぐ単行本シリーズ「アプレミディ・ライブラリー」の初期3作。

    ー 若くしてオリジナルのものを作り上げた人は、往々にしてそういう人が多いようなイメージはあります。

    橋本:クリエイターやアーティストと呼ばれる職種にそういう人が多いかもしれませんね。自分はエディター/コンパイラーだから、そうじゃいけないんだけど、早く成功した人は、若いうちに出来上がっちゃってるというか。だから、上手いこと時代とシンクロできるときもあるし、できなくてしばらく忘れられてしまうタイミングもあったりするんでしょうね。あと、自分がなんでそんなにインプットができたかというと、やっぱり独身だったからってのが大きいかな(笑)。僕、結婚したのが3年前、54歳だったんで。自分の中の興味や好奇心が失われなければ、いくらでも時間を作ることができたんですよね。

    ー 若い頃はCISCO(かつて宇田川町にあったレコードショップ)の近くに住んでらっしゃったとインタビューで拝見しました。

    橋本:そうそう、CISCOの前のマンションに住んでいた時期もありましたね。

    ー そんな場所だったらもう、ほとんど食事をするのと同じ感覚でレコードを。

    橋本:うん、レコードを買うことは完全に生活の一部って感じでしたよ。

    ー そうでないと、こういうふうにはできないんだろうなと。

    橋本:Nujabesとかもそうだったみたいです。彼は移転前の公園通りのカフェ・アプレミディの裏に住んでいたんだけど、レコード屋はもちろん、やしまでうどん食べているときによく出くわしたりもしました(笑)。アプレミディにはファンに囲まれるからあまり来なくて、3軒横のスタバに行くんだよ、あの男は(笑)。

    ー ああ、なんだか素敵な2000年代の景色ですね。

    橋本:そう、渋谷の景色。公園通りのね。

    1枚目、見開き左ページの白黒写真は、1994年にDJ BAR INKSTICKでスタートした『Free Soul Underground』でDJプレイする若かりし日の橋本氏。撮影したのは、毎月このDJパーティーに遊びに来ていた当時20歳のNujabes。

    『Free Soul Nujabes〜First Collection』 / 『Free Soul Nujabes〜Second Collection』
    今なお世界的に熱い支持とリスペクトを受け、温かい讃辞の声がやまない日本を代表する名サウンド・クリエイター、Nujabes。永遠に生き続ける彼の美しい作品群を、ファン待望の顔合わせと言える橋本氏が2014年に『Free Soul』20周年を機にコンパイルした名盤。

    “何か”があった、90年代の東京。

    ー 少々駆け足ですが、2000年代前半までを振り返らせていただきました。

    橋本:振り返ると、これまでにずいぶんといろんなことをやってきましたね。お店を開けて、畳んで、移転して、結婚して、といろいろな生活の変化があるなかで、身のまわりにも就職して音楽から離れちゃう人、結婚して離れちゃう人、子どもが生まれて離れちゃう人がいて、内心がっかりしたこともありましたけど、それ、しょうがないことだったんだなって思うようになりました。取材を受けたときに「そういう人たちに何かメッセージを」とかって言われることがあるんですけど、昔は音楽に関わり続けてほしいという気持ちがありましたが、今は「まあ、しょうがないよね」って答えるようになりましたね(笑)。

    ー ライフステージの移り変わりで、生活の優先順位のようなものも変わりますもんね。

    橋本:うん。でも、同世代の常連さんで、しばらく見てなかったけど、子どもが大学生になったとかで数年越しにアプレミディに来てくれる人とかもいて。経済的には大変だけど、お店を続けてて良かったなって思うのは、そうやってかつての常連さんたちが戻ってきてくれたときですね。話すと、長らくCDを買ってなかったけど、僕の新しいコンビCDを買ったことをきっかけに、また20代の頃みたいにいろいろ買い集めてる、みたいな会話で盛り上がったりもします。自分だけがずっと止まらずに、変わらず動き続けていると思っていた時期もあったんですけど、みんなはみんなでやるべきことをやって、また出会うことができたんだなって。今となってはみんなのことをとにかく尊敬しています(笑)。

    ー 結婚を機に、いろいろと考え方が変わったと。

    橋本:もう、本当にね、変わらざるを得ない(笑)。毎日、かつて佐野元春さんが歌っていたところの”生活といううすのろ”と格闘しています。

    ー そうですよね(笑)。

    橋本:いや、本当に。逆に独身時代の好き勝手やっていたあの頃の自分が恥ずかしい。みんな大変なのに、無理して付き合ってくれてたのかもしれないな、って(笑)。

    ー 好きで付き合っていたんだとは思いますけどね。

    橋本:僕が選曲したCDや主催したパーティーが、日々いろんなことがあるなかでの息抜きになっていたのなら嬉しいですけどね。変わらず続けることがかっこいい、なんて当時は思っていたけれど、自然と変わっていった感じはします。

    ー だいぶ丸くなったんですね(笑)。その心情がこれからの橋本さんのいろんなアウトプットに反映されるのが今から楽しみです。

    橋本:歳を重ねることが、プラスになったら、”味”になったら良いよね。でも、仕事もね、やりすぎは良くない(笑)。『bounce』の頃は常に24時間営業で、電話だって深夜だって受けてましたけど、今はもう19時以降はかけないし、出ない、ようにしている(笑)。「俺らの時代は徹夜で頑張ってたんだよ」っていつまでも言ってるのもかっこ悪いしね。ごめんね、働き方改革の話みたいになってしまって(笑)。

    『Suburbia Suite; Evergreen Review』 /『 Suburbia Suite; Future Antiques』
    伝説的レコードガイドブック『Suburbia Suite』のレヴューをベースに、コンピレーションシリーズ『Café Après-midi』『Free Soul』やその他のメディアで橋本徹氏が手がけたレヴュー、ライナー全てを横断して再編集した、サバービア的スタイルとセレクションが集約された2003年発表の集大成的書籍。

    ー それでは、ここからは個人的興味というか、この機会にあやかってざっくばらんにいろいろと聞かせていただきたいのですが。

    橋本:はい、なんでも聞いてください。

    ー ありがとうございます。先ほど後回しにした『bounce』ですが、個人的に気になる特集が載っているときなどに読んでいまして。橋本さんは1996年から1999年まで『bounce』の編集長を務めていたとのことですが、どのように参画されたんですか?

    橋本:もともと編集部とは関わりがあったんです。インタビュー取材に応じても、どの媒体よりも良い記事を作ってくれるなって思っていたし、僕が届けたい人、いわゆるクラブシーンやストリートだけでなく、タワーレコードで試聴をしてCDを買うような中間層の人たちにリーチできる、数少ないメディアだな、という認識でもあったんですね。たまに取材を受けたり、依頼をもらってジャミロクワイやモッドについて寄稿したりしてたんですけど、そういう付き合いだったのが95年の頃で、その年の終わりにタワーレコードの副社長から「『bounce』の編集長やってくれない?」と電話をもらって。その頃のタワレコってとにかくイケイケというか絶好調で、CDセールスがピークを迎えた1998年の前夜のような感じでしたし、タワーレコードも出店ラッシュですごく勢いがあったから、いい機会だなと思いましたね。

    橋本氏が編集長に就任する以前の『bounce』1995年4月号。中ページでは、橋本氏と『bounce』編集部による座談会と、コンピCDをリリースしたBMGビクター、東芝EMI、SONY以外の音源からエディットされた架空の『Free Soul 90s』のプレイリストなどが4ページにわたって特集されている。

    ー なるほど。橋本さんにとっても魅力的なオファーだったわけですね。

    橋本:うん。というのも、それまでは僕のやってることって、渋谷、ひいては東京のシーンではすごく影響力があったけれど、言ってしまえば、局地的なものだったわけです。それを『bounce』やタワーレコードと組むことによって、より広げられるし、大きく展開していけるって思ったから、とてもありがたい話でした。ただ、繰り返しになりますが、僕が入る前から『bounce』はすでに良い雑誌でしたけどね。もともと在籍していた編集者たちが本当に優秀で、アイディアに富んでいて、結局僕が入ってからもその人たちが優秀だから、とても良い雑誌が作れていたと思います。

    ーとはいえ、『bounce』としても、タワーレコードとしても、いろいろと変えていきたいタイミングだったということですよね。

    橋本:そうだったんだと思います。僕もそのオファーを受けてから参画するまでにいろいろと考えて、プラスで2人、連れて入れるように交渉して。1人は、ちょうど早稲田大学を卒業するタイミングだったライムスターのDJ JIN。当時は山本仁だったんだけど。もう1人はフミヤマウチっていう、和モノDJとしても当時活躍していた元DJ BAR INKSTICKのスタッフで。邦楽に強いフミ君と、ヒップホップやブラックミュージックに強いジン君を連れて入ることが、今後のバランス的に重要かなと思ったんですね。それまでの『bounce』って、古いロックとかシンガーソングライターや洋楽新譜は強かったんですが、僕から見て『bounce』に足りていないかなって思っていた部分を強くできるだろうと考えて、その2人に声をかけたんです。

    橋本氏が編集長に就任後の『bounce』、1998年12月号(METHOD MAN表紙)と1999年1-2月号(TLC表紙)。ボリューム、クオリティともにフリーマガジンとは思えないほどに充実しており、25万部以上刷りながら毎号発行後10日ほどで店頭からなくなるという大ヒットを記録する。ページ数は最大で190ページにまでおよんだ。

    ー 考えうる好バランスの布陣を用意したうえで、参画したと。

    橋本:ラグビーで言うなら、 強いフォワードが前にいるから、僕もスタンドオフとして余裕を持ってプレイができるわけですよ。

    ー ああ、なるほど。脳の使えるリソースが増えるわけですね。

    橋本:そう。良いチーム編成だったと思います。サッカーで言うなら、自分は司令塔ですが、並び立つ攻撃的なミッドフィルダーもいれば、空いてるスペースに走れる足の速いウィングもいるし、スペースを埋めるボランチもいる、みたいな。そういうバランス的に『bounce』はベストな布陣でした。トータル・フットボールですね(笑)。タワーレコードの一部署ではあったから、あまり大きな声では言えないですけれど、入稿前は何日もほぼ徹夜、みたいな状態で熱を入れてやっていたから、そりゃ質・量ともにいいものができるよなって。働き方改革の今のご時世では成り立たなかっただろうなと思います(笑)。

    ー 当時はどの業界もハードワークは横行していたでしょうし、でも、それも含め良い時代だったんでしょうね。

    橋本:そうですね。みんな体力も熱意もあったし、街にも活気がありましたしね。東京という街は90年代、世界的に見ても特別だったと思うんです。僕らが50年代後半のサンジェルマン、ボサノヴァが生まれた頃のリオ、サイケデリック・カルチャーの頃の西海岸とかをどこか特別だと夢見るのと同じように、「90年代の東京」の特別感は、海外の音楽好きたちも、感じていたみたいですね。

    ー なるほど。

    橋本:もちろん、かなり曲解して伝わってる部分もありましたけどね。“渋谷系”なんて言葉も、僕らが考えるような本来の意味とはずいぶんと異なるかたちで一人歩きしていましたし。ただまあ、その時代の東京に何かがあったって感覚は、アメリカ人や韓国人、ヨーロッパの人たちと話していても話題にあがりますね。

    ー 僕は92年生まれなので、その時代に青春時代を送れたことを羨ましく思います。まだ義務教育を受け始める頃だったので。

    橋本:僕らが、10~20代の頃に、1960年代に憧れたようなもんだね。

    ー 確かに、そうですね。ところで、橋本さんのどのワークスを見ても、”橋本印”ではないですが、一貫した空気感が流れてるのを感じていて。その正体がなんとなく見えてきてはいるのですが、個人的には、”言葉”が担っている役割も大きいのではないかなと思っていまして。

    橋本:いろんなものに名前を付けていたから、当時は友達に”ネイマー”なんて言われたりしてましたね(笑)。もう今はそんなに冴えたフレーズが浮かぶわけじゃないけど、やっぱり、『Free Soul』しかり、言葉自体に吸引力があったものは結果的に成功している気がします。だからやっぱり、言葉って重要なんだなって思う。

    ー すごく大事だなって僕も思っていて。どういう言葉を使うかでかっこよく見えたり、おしゃれに見えたり、難しく見えたり、簡単に見えたりが決まるっていうのは、不思議であり、面白いことだなと。

    橋本:振り返ってみると、うまくいったものについては名前が決まるのもスムーズでした。そういうものは思い浮かぶまでにほとんど時間がかからないんですよね。音楽でも、先にタイトルをつけてから作曲する人がいるけど、僕もどちらかというとそういうタイプ。ただ、カフェ・アプレミディだけはけっこう時間がかかったかな。

    ー それはまた、どうしてでしょう。

    橋本:なんでなんだろうね。カフェを始めるってことは決まっていて、オープンの1か月前でもう工事も始まって、どうしようかな、って考えているときにふとひらめいて、名付けた名前なんです。由来としては、先ほど話したフランスでのカフェ文化の取材で、アフタヌーンティーに置かれるフリーマガジンの編集を担当していたのですが、その企画のタイトルを『午後の紅茶』をオマージュして『午後のコーヒー』、これをフランス語にして『Café Après-midi』と名付けたんです。そのタイトルはとても気に入っていたし、「自分がつけた名前だから自分のお店で使ってもいいよな?」って思いついて(笑)、店名にしたわけですね。一応、クライアントだったSONYとアフタヌーンティーには了承を得ましたけどね。それからは「午後のコーヒー的なシアワセ」というのをキャッチフレーズにして、『Café Après-midi』をコンピシリーズのタイトルにも派生させました。

    『Café Après-midi』
    2000年夏にスタートした、ジャズ、ブラジリアン・ミュージック、フレンチ・ミュージック、ソフトロック、シネマ楽曲など、さまざまなジャンルから時代を超えて選曲された人気コンピシリーズ。NANAの小野英作によるアートワークには、フランスの伝統色が用いられている。

    ー そういう経緯があったんですね。そのコンピは、いわゆるカフェ・ミュージックと呼ばれるような。

    橋本:当時はカフェ・ミュージックって言葉自体もまだなかったんだけど、CDの帯に使ったら、そのコンピも流行しすぎちゃって(笑)。カフェ・ミュージックといえばスムースなボッサで、心地よい感じの音楽って定義されて、イメージばかりが先行するようになっちゃいましたね。だから、それからの20年は、イメージを覆したり、広げたりっていうストラグルがずっと続いています。こちらがいくら多種多様な選曲をしても、世に出てる類似品と同じ扱いにされて”カフェ・ミュージック”の一言で括られたり、もっと言ったら、僕が選曲すると、全部『Free Soul』みたいなイメージで捉えられちゃうっていうね(笑)。自分が立ち上げたものが、言葉が一人歩きして、思いもよらぬ定義をされてしまったな、と感じたら、それを壊すまではいかないけど、広げたり、正しく伝えるための格闘を続けなければならないっていうのが、僕の歴史ですね。

    ー なるほど。他にもそういうこと、ありそうですね。

    橋本:たくさんありましたね(笑)。2007年に『Mellow Beats』というコンピレーションシリーズを始めたんですけど、それは、僕としては”ジャズとヒップホップの蜜月”という部分が重要だったのに、フォロワーみたいなシリーズで、今でいうローファイ・ヒップホップのような、ただメロウで聴きやすい、ラップが入ってないヒップホップのイージーリスニング的に捉えられてしまって、類似コンピが次々に出てきたこともありました(笑)。そういうのは、うーん、てなっちゃいますよね。まあ、常にあったことですけど。ただ、最近はそういう後釜が生まれるようなものさえ作れていないから、やっぱり自分のパワーが落ちてきているなと。誤解されるぐらいキャッチーな作品って、やっぱり訴求力や吸引力が強いものである証拠だと思うし。

    『Mellow Beats』
    2007年にスタートし、大ヒットを記録した橋本氏による初のヒップホップ・チルアウト・コンピシリーズ。キャッチコピーは「至上のメロウ・グルーヴ、ジャズとヒップホップの蜜月」。

    ー 正しく伝えることをサボらない姿勢は、編集者の大先輩として見習わせていただきたいです。個人的に、自分が編集や執筆をする際には、恥ずかしながら「知りたい」「わからない」がスタート地点にあることが多いんですけど、橋本さんはきっと違うんだろうなと。

    橋本:僕は「伝えたい」「みんなで楽しみたい」ですかね。自分の中で蓄積されてきたものがあって「これをどういう形でみんなに伝えようかな? どうすれば楽しいものであると伝わるかな?」ってところがスタート。友達と、彼女と、「これいいよね!」って盛り上がる瞬間がとにかく好きなんです。物事の愛し方って人それぞれだから、本当にすごい大好きで、突き詰めて、自分だけで掘り下げていく、ってやり方も尊いとは思うけれど、僕は、いいなと思うものを見つけると、どうにかして人と共有したくなっちゃうんだよね。『Surburbia Suite』の頃から、それはずっと同じです。

    2023年リリース。橋本徹の記念すべきコンパイラー人生30周年を祝福する、3部作のコンピレーション『Blessing 〜 Free Soul × Cafe Apres-midi × Mellow Beat × Jazz Supreme』『Gratitude 〜 Free Soul Treasure』『Merci 〜 Cafe Apres-midi Revue』。