- 音楽とファッション。
田島貴男とLevi’s®︎。ブランド生誕30周年を迎える「ÉDIFICE」。それを記念したLevi’s®︎とのコラボレーションモデルは、ヴィンテージ市場で高い価値がつくファーストモデルのデニムジャケットや、501®の復刻モデルがラインナップしています。これを纏うのは、Original Loveの田島貴男さん。これまで語られてこなかった自身のファッションについて、そして音楽家としての生き方について、田島さんのアイデアに触れていきます。
Starring_Takao Tajima【Original Love】
Photo_SEIYA FUJII【W】
Photo Assistant_Kana Hashimoto、Yuko Kitade
Movie Direction_Isamu Maeda
Cinemaphotography_Yuki Maxima
Movie Edit_Nanase Akiyama
Styling_ÉDIFICE
Hair&Make-up_Go Takakusagi【VANITÈS】
Recorded&Mixed_yasu2000
Artist&Repertoire_Kojiro Ishida
Flowers_Mizuki Kobayashi
Text_Tsuji
Promotion_Daichi Katsura
Edit_Ryotaro Miyazaki
Special Thanks_big turtle STUDIOS、Tadashi Mishima【EYETHINK】1966年生まれ、東京都出身。1985年にバンドを結成し、都内を中心に精力的な活動を行う。87年よりバンド名を「オリジナル・ラブ」に変更。代表作としてシングル『接吻』『プライマル』アルバム『風の歌を聴け』などがある。1988~1990年までは小西康陽率いるピチカート・ファイヴに在籍した経歴も持つ。近年はバンドでの表現以外に、ひとりでループマシーンを駆使して行う「ひとりソウル」や弾き語りでの表現で新機軸を見せ、現在も精力的に活動している。
かっこいいものとして残ってきたのは、
形がよくて、素材もよかったから。田島さんは普段からデニムを穿いている印象があります。
田島:501®は大好きでいつも穿いていますよ。ラクなんですよ。
Instagramでもデニム姿で登場されていることがありますが、キレイに色落ちしたデニムを穿いてますよね。
田島:何本かまとめて買って、ボロボロになるまで穿いて、また新しいのを引っ張り出してくる。その繰り返しですね。
本来のデニムの穿き方というか。
田島:自然にエイジングされていく感じが好きですね。ヴィンテージがいいとか、そういうこだわりはあまりなくて。音楽にはすごくこだわるんだけど、服はどっちかというと無頓着なほうなんです。あまり細かいことを気にせずに、自分に合う、合わないで判断するくらい。この前もイベントで革ジャンを着させてもらったんだけど、久しぶりに羽織ったらしっくりときて。それ以来、着る機会が増えましたね。
今回、ÉDIFICEが別注した「501®」とトラッカージャケットはいかがでしたか?
田島:めちゃくちゃかっこいいなって思いましたよ。
大人の方が似合う服だなと思いました。
田島:昔は作業着として着られていたものなのに、そこにファッション的な価値を見出した歴史がぼくは好きですね。オートクチュールのようにデザインされたものじゃなくて、仕事のためにつくられたものがファッションになった。それを体現しているのがLevi’s®︎というブランドで、すごく尊敬しますね。
オートクチュールは階級の高いひとたちが着るものなのに対して、こういうアイテムは誰でも手に取りやすい。その中でかっこいいものとそうじゃないものがあるんだけど、「501®」も、このデニムジャケットも、そういうものとして残ってきた。それは形がよくて、素材もよかったからだと思うんです。どちらか一方では残らなかったと思う。そうゆうところに魅力を感じますね。「501®」は今年で生誕150周年を迎えました。そこには、時代に合わせてアップデートを繰り返してきた歴史もあるんです。
田島:150年もずっと残っているアイテムってなかなかないですよね。そこに定番としての価値を見出したっていうところにグッときます。移り変わりの激しいファッションの世界で、祖父、親父、本人、息子、孫の代まで、定番のワードローブとして穿ける501®ってすごいですよね。
人間の普遍的な感情や
感覚に訴えられるようにつくった曲。田島さんが作曲された「接吻」や、今回演奏していただいた「朝日のあたる道」も長く愛されている楽曲ですよね。
田島:田島といえば「接吻」って、みんな言いますよ(笑)。これまでに何百曲って制作してきたけど、他にもいい曲がいっぱいあるんですけどね(笑)。でも、すごくありがたいです。若い時から曲書きの端くれとして、スタンダードとして時代を超えて、色んな方に親しまれる曲を書くことが究極の理想だったわけですから。それこそ「501®︎」みたいに。
「朝日のあたる道」や「接吻」はもちろん、ほとんどの曲が、個人的な想いを万人に響かせる普遍的な“なにものか”を意識しながら書いたんです。それが上手くいったか、そうではなかったかは諸々あるかもしれないけど。
ぼくがデビューした頃の1990年初頭の日本は、大衆的ないわゆるお茶の間の音楽と、クールなロック、ソウル、クラブミュージックとは、かなりかけ離れたものだったので、特にそういう意識で仕事をせねば現状が何も変わらないじゃないかと思っていたのかもしれませんね。当時締め切りに追われてて、めちゃくちゃ忙しいときに追い込まれてできたんですよ(笑)。ぼくはカラダが丈夫なほうなんだけど、この曲をつくっているときに倒れてしまって、2日くらい寝込んだんです。それでレコーディングも飛ばしてしまって、いろんな人に迷惑をかけてしまって。
この曲が入っている『風の歌を聴け』というアルバムは、1ヶ月か2ヶ月くらいでつくらなきゃいけなくて、とてもタイトなスケジュールでしたね。寝る暇もない究極の忙しさ。だから火事場の馬鹿力で生まれた曲なんです(笑)。そうやって生まれた曲のほうが強さがあるのでしょうか。
田島:そうかもしれないですね。絞りだしてようやくできた曲だから。他のアーティストに聞いてみても、案外そうだったりしますね。
アマチュア時代はライブのために
古着屋を何軒も回っていた。再びファッションの話に戻ります。先ほど、服に対して「細かいところはこだわらない」というお話をされていましたが、ステージ衣装にこだわりはありますか?
田島:十数年前から毎秋に「ひとりソウルツアー」と題したツアーをやっているんだけど、今年はジーンズに革ジャンというスタイルで演奏しました。これまで色んな衣装を着てきたんだけど、やっと自分にとってしっくりとくるものが見つかった気がしました 。すごくナチュラルにステージに立てたというか。
ギターを演奏しながら歌を唄うわけですが、そうしたことも考慮されているんですか?
田島: いや、あんまり考えてないですね(笑)。ロックやソウル、ジャズなどの大衆音楽の世界では、ステージ衣装っていろんな変遷があって、たとえばビートルズはよくジャケットを着ていましたよね。アメリカのジャズマンたちもスーツやタキシードを着ていて。その反動なのか、70年代のアメリカンロックの時代になると、ステージ衣装というよりも普段着のような感じでジーンズにダンガリーシャツを合わせたりしていた。
70年代後半にそれが飽和状態になってくると、今度はパンクファッションが生まれて、ヴィヴィアン・ウェストウッドがセックス・ピストルズに過激なコスチュームをデザインして、あれは衝撃的でした。そこから“衣装”っていう概念が復活した気がします。2000年以降はみんなTシャツにジーパンみたいな格好でステージに立つ人が多くて。普段着のままステージに立っている印象。そういうのはサイクルなんですよね。90年代のオリジナル・ラブの映像を見ると、田島さんはサイケデリックなシャツを着ています。そこから今度はジャケットの印象が強くなり、最近は革ジャンを着ていると。その変遷を見ていると、すごくかっこいい歳の取り方をされているなと思いました。
田島:少年時代のぼくはニューウェイブとかポストパンクに影響を受けているんですが、あの時代の音楽ってファッションとの結びつきがすごく強かったんですよ。だから憧れたわけで、彼らがダサい格好をしていたら音楽に対する興味が生まれてなかったと思う。それでアマチュア時代はライブのために古着屋を何軒も回って衣装を買ったりしてましたね。
ヴィジュアル面で、とくに印象に残っているアーティストはいますか?
田島:やっぱりセックス・ピストルズですね。ヴィヴィアンがどういうことを考えて、彼らにああいう衣装を着せていたのか、いまになって振り返るとすごく理解ができる。当時は服が破れていたり、安全ピンを装飾的に使っていたりして、そこばかり注目していたけど、いま見ると細かいところまでしっかりと気が配られていて、すごく技巧的なファッションですよね 。人工的で隅々まで行き届いたファッション。完璧でしたよね。
ソウルフルな歌を唄いたいと
いつも思っている。先ほど「革ジャンを着てしっくりきた」という話をされていましたが、その内側にはどんなお気持ちが隠されているんですか?
田島:そこまで深い思いというのはないんだけど、ただただステージで着てみたら、心地よかったというだけなんです。それまでは衣装をどうしようか考えることが多かったけど、革ジャンを着て「これでいいじゃん」ってすんなりと気持ちが収まった感じ。革ジャンだから演奏はしにくいんだけど(笑)、「ひとりソウルツアー」でやっている音楽スタイルに合うファッションというかね。まとまりが生まれたなって。見た目と音楽の整合性が取れたなと感じました。
「ひとりソウルショウ」ではギターを弾いて唄うだけではなくて、足でリズムを取られたりして、カラダ全体を使って演奏されていますよね。
田島:そう、なかなかタフな作業です。普通の弾き語りの20倍くらい疲れます(笑)。「ひとりソウルツアー」を始めたばかりの、まだその音楽スタイルを模索している頃に、ジョン・リー・フッカーやカントリーブルースのミュージシャンを映像で観て「これだ!」と思ったんです。それらが自分にとってはすごく新しい音楽スタイルに思えて。ブルースって古くて難しい音楽だと思っていたんだけど、本来はものすごく庶民的で、いうなれば当時のポップ音楽というか、みんな聴いていたものなんですよね。だからなにも難しく考えなくていいんです。
耳で聴いていても素晴らしいし、目で見ていても飽きないというか。
田島: 「ひとりソウル」はもう10年以上やっているので、それなりに変遷があります。ひとりでギターを持ってお客さんの前で演奏すると決めたときに、座ってギターをポロンと弾いて歌う普通の弾き語りではなく、立ってシャウトして演奏して、お客さんをワーっと盛り上げられるスタイルはないかといろいろ試して、カントリーブルースに影響を受けたり、ジャズのソロギターを習ったり、ひとりでロックンロールするみたいに演奏したりと、その時々で発展させていまの形になっていきました。
当たり前だけど、お客さんはお金を払ってライブ会場に足を運んでくれているわけだから、ライブを見てワクワクするような「生きた音楽=ライブミュージック」を演奏しなきゃっていう気持ちがあります。ステージの上にいるミュージシャンとして、ちゃんと音で勝負したい。そうじゃないと恥ずかしいっていう気持ちがどこかにあるんです。初心を忘れないというか、そんなお気持ちですか?
田島:初心というよりは、自分以外の誰かのライブに足を運んで「すごい」とか「おもしろい」と感じたり、逆に物足りなさを感じたりするときもあって、その違いは明確なんです。だから自分のライブではお客さんに「イエーイ!」って思われたい。そういうシンプルな気持ちですね。ソウルフルな歌を唄いたいといつも思ってます。
「音楽がなかったらどうする?」って
常に自問自答している。音楽活動をする中で、楽しいときと辛いときがあると思うんです。それはどんな職業も同じだと思いますが、ご自身の活動のモチベーションはどんなところにありますか?
田島:楽しいとか、辛いとか、いまはもうよくわからないですね。何十年もやっていると、それすらもわからなくなっている。だけど、音楽で食べてますからね。がんばらなきゃっていう意識がいちばん強いです。音楽以外では生活ができない、つまり他の生き方はできないので。
ずっとミュージシャンでいるというか、死ぬまで現役というお気持ちですか?
田島:そうですね。続けられるところまでやりたい、というか、やるしかない。未来に何が起こるかわからないですから。だからやれる限りライブをやって、やれる限りお客さんに楽しんでもらう。それはミュージシャンだけに限らずどんな職業でも同じだから、自分を特別だとも思っていないんです。プロとして、やることをやるだけなんですよ。
そのシンプルさというか、プロ根性に惹かれます。
田島:魅力がないとどんな職業やお店だって続けられないでしょう。
世の中にはいろんな人がいる中で、目標を持ってそれに邁進する人と、目標をつくらずにただひたすら前を向いて歩く人がいると思うんです。田島さんの場合はどちらですか?
田島:どちらかといえば、ぼくは目標を持たない人だったかもしれないですね。ただ、あとがないっていう意識は20代の頃からずっとあって。学生時代に「田島は絶対に普通の就職できない」 ってみんなに言われてきたんですよ(笑)。だから音楽をやるしかない。その危機感だけでやってきました。売れなかったら別の仕事をして働こうっていう余裕はまったくなかったですね。いまもそれは同じです。「音楽がなかったらどうする?」って常に自問自答している感じというか。
誤解を恐れずに言えば、それはある種、ストリートミュージシャンと同じ気持ちのような気もします。
田島:自分の中のどこかしらにいつもそういった感覚はありますね。音楽を演奏して、お金をいただくっていう。大企業に就職して、一生食いっぱぐれないという職業じゃないですからね。明日どうなるかわからないからこそ、なんとかしなきゃっていう。いまもそういう気持ちです。年齢を重ねて、いろいろな物事がリアルでクリアになってきました。でも、だからこそがんばらなきゃって思ってますね。