CHARITY
能登復興応援を私たちのやり方で

能登の今を支える、3つのまなざし。― 食、工芸、人。
その現場から見えてきたもの。
2024年能登半島地震・奥能登豪雨から1年半。観光地として名高いこの地にも深い爪痕が残されたままです。今もなお住宅の再建が進まず、かつてのにぎわいを取り戻すには想像以上の時間がかかっている。それが能登の”今”です。
けれど、そこには確かに前を向く人々がいます。土地に根差した「食」を武器に、伝統工芸の継承、人と人との橋渡し。それぞれの手法で地元を守り、次世代にバトンを渡そうとする姿がありました。
このレポートでは能登で出会った3人にお話を聞かせていただきました。地域の味を受け継ぎながら革新する料理人、伝統工芸を未来につなぐ職人、人と人とをつなぐ新たな場をつくる仕掛け人。それぞれが抱える想いとそこに込められた能登への愛着をぜひ感じてください。
池端隼也
ラトリエ・ドゥ・ノト シェフ

1979年生まれ。輪島市出身。大阪の辻調理師専門学校を経て、フレンチの名店「カランドリエ」で修行を開始。2006年に渡仏し、ブルゴーニュにある星付きレストランで研鑽を積む。帰国後は大阪で出店予定だったが、帰省した際に「能登の食材の素晴らしさ」を目の当たりにし、急遽地元での出店を決意。2014年に「ラトリエ・ドゥ・ノト」がオープンした。
桐本泰一
輪島キリモト七代目

1962年生まれ。輪島市出身。大学でプロダクトデザインを学び、企業でオフィスプランニングに従事したのち、故郷・輪島へ。木地職人として4年半の修業を経て、漆器づくりに携わるようになる。造形やデザインの提案から、漆器監修まで幅広く手がけ、漆塗り専門の職人とともに「輪島キリモト」のものづくりを支える。産地の職人や都市部のクリエイターと連携し、暮らしに木や漆が自然と寄り添うあり方を探求。伝統に軸足を置きながら、新たな価値の創出に取り組んでいる。
辻野実

1982年生まれ。鳳珠郡能登町(旧能都町)出身。高校卒業後に大阪の大学で学び、マーケティング会社に勤務。2007年の能登半島沖地震を機に石川県へ戻り、金沢市内の企業に4年間在籍したのち、2012年にウェブデザイナーとして独立。2016年には、地元・能登の祭りや風土を映像や写真で伝えるプロジェクト「能登のワイルド」を立ち上げ、地域に根ざしたさまざまなイベントや企画を手がける。2018年にはデザイン会社「SCARAMANGA(スカラマンガ)」を法人化。日々の暮らしの中に地域の魅力を再発見し、伝えるかたちを模索しながら、震災後の復興にも精力的に取り組んでいる。
池端隼也さん
“食”を通じて能登本来の魅力を伝える。
大阪で和食店を営んでいた池端さんが、故郷・能登の輪島に戻ったのは10年以上前のこと。母の看病を機に一時帰郷した際、改めて地元の食材の豊かさに気づき、当初は「こんな田舎でレストランなんて」と思っていた気持ちを覆されたという。2014年には地元でレストランを開業。やがてミシュランにも掲載され、全国から食通が訪れる存在へと成長した。
そんな彼の店を直撃したのが、2024年元日に起きた能登半島地震だった。レストランは甚大な被害を受け、営業は困難に。それでも池端さんは翌日から炊き出しを開始する。「真っ暗で水も電気もない中、プロパンを借りて、手元にあったワインでアルコールを飛ばして最初の鍋を炊いた」と語る。仲間とともに始めた炊き出しは次第に広がり、1日2,000食、半年間で約10万食を提供する大規模な支援活動へと発展した。「やってる方が元気をもらってた」と振り返るその言葉からは、目の前の人に食を届けることで生まれる力強い循環が感じられる。
被災後の現在も、池端さんは精力的に動いている。東京・青山や箱根など各地で料理イベントを開催し、能登の食材や文化を伝え続けているほか、地元では子どもたちを対象とした食育イベントも実施。仮設住宅の基礎ができる頃合いを見計らって、被災者の心の拠り所となる拠点づくりも始めた。クラウドファンディングでは1500万円以上を集め、休業中の店舗を修繕しながら、地域の飲食人材の受け皿となるよう取り組んでいる。
「“支援してください”じゃなくて、“食べに来てください”って言いたいんです」。そう語る池端さんは、被災地であることを過度に強調するのではなく、能登本来の魅力をどう伝えるかに力を注ぐ。課題は山積している。壊滅的な打撃を受けた宿泊施設、流出した観光客、働く人の減少。だがそれでも、「空港が近くて、海も山もあって、美味しいものがたくさんある。こんな場所、他にそうそうない。まだまだやれると思ってます」と、前を見据える。
今後は、フェスティバルや都市でのイベントを通じて、能登との“関係人口”を増やす構想も進行中だ。地域を離れて暮らす人も、訪れる人も、何かしらのかたちで関わってくれればそれが希望につながる。池端さんの言葉の端々には、そんな想いが滲んでいる。
桐本泰一さん
単なる“もの”ではなく、“記憶”としての伝統工芸。
2024年元日に発生した能登半島地震と、その後の水害によって、桐本泰一さんの暮らしと仕事場は大きな被害を受けた。自宅・工房・店舗は損壊・浸水し、「今は仮設的に、店舗に住まざるを得ない」日々が続いている。
復旧が進む中で目にしたのは、伝統的な輪島塗の器「御前(ごぜん)揃い」が、災害ごみとして次々に捨てられていく現実だった。「いやいやいや、ちょっと待ってくれ」と、桐本さんは思わず声をあげる。そこには、100年以上前の手仕事が、何の手立てもないまま失われていく無念があった。
地域の人々から不要となった器を譲り受け、再生するプロジェクト「輪島塗 Rescue & Reborn プロジェクト」がこうして始動する。欠けや傷のある器は修復し、時にはパーツを解体してシェルフや照明、建築の内装材に生まれ変わらせる。「これは捨てるわけにはいかない」。彼のその言葉には、器を“もの”としてではなく、“記憶”として捉える眼差しがある。
こうした再生活動と並行して、輪島塗の食器を用いた食育の取り組みや、国内外の飲食店・建築空間への導入にも力を入れる。プロフェッショナルやNHKの特集番組でも取り上げられたが、「テレビに出たからといって爆発的に売れるわけではない」。それでも、少しずつ、確実に、「輪島塗って、意外と日常に合うんですね」と言ってくれる若い世代の声が増えてきたという。
30年前からナチュラルカラーや金属対応の器など、暮らしに即した輪島塗を模索し続けてきた桐本さん。「和食以外にも合いますよ。サンドイッチなんかにもオススメです」と嬉しそうに、日常に寄り添う器の可能性を説く。その言葉に耳を傾ければ、彼が信じる「工芸の未来」が確かな輪郭を帯びてくる。
輪島塗は、ただの伝統工芸品ではない。「職人さんに仕事をお願いし続けられる、産地の中の循環をつくるための仕組みなんです」。そう語る桐本さんの営みは、地域の暮らしと文化を次の時代へつなぐ静かな闘いである。
辻野実さん
泊まって、食べて、人と繋がれる場所を作りたい。
2024年の能登半島地震で壊滅的な被害を受けた港町・内浦地区。かつて魚屋や商店が立ち並び、人の営みが凝縮していたこの場所は、今やほぼ無人となった。「このエリア、スーパーや酒蔵、飲食店が全部なくなったんです」そう語るのは、金沢から地元に戻り、地域の再生に取り組む辻野さんだ。
震災直後、小学校や公民館が避難所となり、故郷に帰省してきた方々や観光客を含む約500人を超える人たちが身を寄せた。住宅の倒壊、道路の寸断、辿り着けない救急車。過酷な状況のなかでも被害を最小限に防げたのは、地域住民同士の迅速な助け合いがあったからだという。
現在、多くの住民は高台の仮設住宅で暮らしているが、祭りや神社、古くからの暮らしの中心は“坂の下”にある。「やっぱりお祭りは残したいし、元の場所に戻りたい」。若い世代を中心に、そんな声も根強い。復興を誓い、祭は今年も開催された。「改めて地域のつながりの大切さを感じた」と話す。
能登が抱える課題は、震災からの復興だけではない。人口流出が続き、かつ来県者が滞在できる場所もほとんどないのが現状だ。「泊まって、食べて、人とつながれる場所があれば、この町の景色は変わるはず」。そう考えた辻野さんは、漁師の中田洋助さんとチームを組み、「みんなの家」プロジェクトを始動。子どもたちの居場所、食堂、イベントや展示ができる共有スペースを一体化し、誰もが立ち寄れる“町の止まり木”のような拠点づくりを進めている。
震災の混乱のなかでは、寺への泥棒被害や警察の不在といった問題も起きた。住民たちは自警団をつくり、2時間おきのパトロールを自主的に実施。「避難しながら、防災しながら、自分たちで町を守ってきた」日々があった。「どうせやるなら、もう一回、ちゃんと楽しい場所にしたいんです」。そう話す辻野さんの言葉には、過疎と震災を乗り越えようとするこの町の未来が、確かに宿っている。